書き暮らしのテフレッティ

へっぽこ営業マンのぼやき

2020年のふりかえり

「四苦八苦」の「四苦」は「生老病死」のことをいうが、今年は特にそれを間近に見たり接したり、或いは感じたり考えさせられたりすることの多い一年であった。

商売の師匠の一人を亡くした

7月の暑い日。職業訓練を終えたあと、背広の上着を羽織ろうとしたら、胸ポケットにクリップで挟んでいたはずの、ノック式万年筆が飛び出し、そのままノック部分が床にあたって使い物にならなくなった。少し落ち込んだ気分のまま駐車場へ戻り車のエンジンをかけると、ラジオのニュースでは札幌市内でのワゴン車の衝突・死亡事件を伝えている。その、死亡したのが私が社会人になって初めて「師」と慕ったその人であった。数日後であったか翌日であったか、知人から訃報を受けた。

社会人1年目、古書店に勤めていたが、その社長はよくうちの事務所に遊びにきた。うちの店主と話し込むときもあったが、「こんちわ! おい! ◯◯君いるか?」と入って来られ、店主がいなければ「おい、まる。ちょっといいか」という感じで話が始まり、30分とか1時間とか喋ることが常であった。

余談だが、函館の今はなき棒二森屋での古本催事の旗振り役は私にしようと推してくださったのはその人であったと、人づてにきいた。

札幌へ走り、お通夜のそのとき、柩のなかの社長の姿をひと目見て、文字通り崩れ落ちる私の姿があった。翌日のお葬式には古書組合の方々とともに参列し、出棺まで見届けられたのは仕合わせであった。

横紋筋融解症になった

7月後半からたまにふらつくことはあったのだが、「まぁ疲れているんだろう」と思うことにしていた。ところが8月3日、下痢や嘔気といった胃腸炎症状で内科にかかると、なぜかレントゲンに採血までなされ、するとクレアチンキナーゼ(CK)の値が3000を超えており、とりあえずは外来的に点滴をしたものの、その後さらに転倒が続き、入院となった。

当初は高クレアチンキナーゼ血症ということで、約4日半にわたり輸液を受けてその数値は正常に戻ったものの、その後、下肢の筋痛・痺れに襲われた。が、概ね歩行に問題なしということで地元病院を退院。

しかし症状は治まるどころか上肢にも同じような症状が広がり、内科でも整形外科でも診療不能で「神経内科へ」と言われ、旭川医科大学病院の脳神経内科に診療情報提供書を書いてもらい、8月25日に受診すると要精査ということで即日入院。

ありとあらゆる検査を受けたが器質的な異常はなく、横紋筋融解症と診断される。おそらく、コレステロール治療薬か降圧剤の副作用と思われる。横紋筋融解症は地元病院では「稀なので」と研修医氏に否定されていたが、その診断となった。

その後は家でとにかく体を休ませたり、あるいは会社へは少しずつ出たりはしたが、症状改善せず、地元病院で理学療法を受けることに。けれども著しい効果もなく、どうしようかと思っていたところ、屋外で脱力し転倒したところ腰部を強打。整骨院に通うこととなり、つまりは低周波治療で強制的に筋肉を動かすということになり、10月半ばには症状消失、11月初旬の受診で正式に終診となった。ちょうど高クレアチンキナーゼ血症の診断から3ヶ月であった。

苦しいことばかりではなく……
空手を再開した

小学4年の夏から中学1年の3月まで続けていた空手。

去年は吹奏楽をやめたけれど何か物足りなく、しかも去年12月に高血圧症も患ってしまい適度な運動もしなえればいけなく、ちょうど良いタイミングだと思い、今年の1月から空手を再開した。

以前は全日本空手道連盟加盟の松濤館流の団体、今回は日本空手協会。同じ松濤館流だからさほど大きな変わりはないし、もっとも、子供の頃にお世話になった先生も、今は協会に所属している。ここの支部の指導員の面々も変わりなく、「入る気満々」で見学し、すぐ「入ります」と即答。

新型コロナウイルス感染症の関係で施設が利用できなかったり、先述の通り横紋筋融解症で数カ月間稽古ができなかったりで、実際には一年間のうち半分くらいしか稽古に行けず、年に二度ある昇級審査も12月のそれは坐骨神経痛があって受けられなかったけれど、ブランク約17年で無級から再開した身、仮8級でもまぁ「努力賞」ということで、来年には色帯になれることを目指しつつ、これからもじっくり取り組んでいこうかと。

もっとも、毎回通える・通いたくなるその気持ちの「もと」といえば、一緒に稽古をしている小中学生の子達の無垢な純粋さであり、彼ら彼女らに学ばされるところは多い。

書道

秋津書道会は6月末日締切に清書が間に合い、9月1日付で高等部を終了し芸術部 (人の部) へ。惜しむらくはその後横紋筋融解症になり筆を持つのもつらかったこと。これでサボりぐせがついてしまったので来年こそは毎日少しでも筆をもちたい。

ちなみに芸術部になると雅号を使ってもよいということで、私を書道の世界に引っ張ってくれた、小学3・4年のときの担任の雅号「恵逸」から一文字を頂戴し、「玄逸」とさせて頂いた。もっともその人にいわく、「◯◯ちゃんなら「玄◯」ってどうかなーって思ってたんだよね」とのこと。事実上その先生につけてもらったといっても過言ではなかろう。

短歌

しきない短歌会が毎年行っている「しきなみ賞・しきなみ新人賞」に気軽に応募したところ、ある日突然「入選のお知らせ」という封書が届き、開封すると「しきなみ新人賞 最優秀賞」とあった。夢かと思った。友人知人各氏からお祝いの言葉を頂戴し、やっと実感がわいてくるという有様ではあった。

令和2年5月1日付の、私が今までもらった賞状のなかで一番大きなそれを額に入れて部屋の高いところにおいてある。

ところで来年の目標は?

それは明日の更新のお楽しみということで。